夕顔の本棚

ここに掲載しているものはフィクションです。苦手な方はご注意ください。

[第一話]籠の鳥 二

 

「…神代さん?」


ある日、君の姿は僕の家の近くの橋の上にあった。


その日は、少し汗ばむような春の終わりの太陽に、大陸からの砂を含んだ偏西風が吹く、初夏の陽気だったと思う。


「あなたは…金指くん?」


クラスメイトというだけで、きちんと話したこともない僕と君。


けれど、この辺りで知らない人はいないこの高偏差値の有名高校に首席で合格した君が、日本経済の中心を担う神代財閥の令嬢・神代紫苑であることくらいは風の噂で知っていた。


眉下で綺麗に切り揃えられた前髪と長い黒髪を、緑の匂いがする生ぬるい風に靡かせて、君は橋の下を見下ろしていた。


「どうしたの、こんなところで」


神代邸は隣の市にある。


さらに君の送迎はいつも神代家専属の運転手がしていたものだから、放課後の太陽が黄色く染まるこの時間、君がこんなところにいるのを僕は不思議に思った。


「送迎車が故障してしまって。代わりの車を手配するから学校で待つように言われたのだけれど、一人で帰れると言って出てきてしまって…」


ここで言葉を切る君。


「それで?」


君は眉を下げて、浅いため息をついた。


「道に迷ってしまったの」


迷っていると言いながら、妙に落ち着き払った君の態度は腑に落ちなかったが、僕はそれ以上の衝撃を受けていた。


日本屈指の財閥令嬢とは、こういうものなのだろうか。


送迎車を使わずに出歩いたことがないんだなぁ…。


「神代さん…失礼だけど、君の家って山皇市だよね?」


「どうしてそれを?」


「この辺りで神代さんの家を知らない人はいないと思うよ…」


高級住宅地である山皇市。


その中でも一際大きく、テーマパークと見紛うほどの敷地に、高級ホテルのような重厚な外装で、他と一線を画すのが神代邸だ。


知らない人がこのあたりにいるものか。


呆れて物が言えなくなった僕を、君はただじっと見ていた。


笑うでもなく、怒るでもなく、ロボットのように無機質な瞳だった。


「あのね、神代さん」


そよそよと僕らの頬を撫でていた風が、一瞬びゅうっと強く吹き付けた。


「こっちは山皇市と反対方向だよ」