夕顔の本棚

ここに掲載しているものはフィクションです。苦手な方はご注意ください。

[第一話]籠の鳥 三

 

「ねえ、金指くん。これって、改札?」


「は?」


「本で読んだことがあるの。初めて見るわ」


君を家へ送るのは大変だった。


学校から山皇市まで正反対の方向へ、君はかなりの距離を歩いていたから、徒歩で帰るのはかなり時間がかかる。


そこで電車を使って送ろうとしたけど、君は電車に乗ったことがなかったらしく、切符の買い方、改札の通り方、ホームの並び方まで、すべてを教えなければならなかった。


「金指くん、電車ってすごいわね」


山皇市方面へ向かう電車は空いていた。


ゴトン、ガタン、と聞こえる電車が走る音。
西陽の差す大きな窓。
大勢の人と共有する長い椅子。
規則的に揺れる吊革。


普通の高校生ならいちいち感動しない、普通の電車に揺られ、普段は感情のない君の瞳がほんの少し輝いて見えた。


『次は北皇山手。北皇山手です。お出口は右側に変わります』


「神代さん、次だよ」


「あら、もう降りるの?」


名残惜しそうに、君は最寄駅のホームへと降りた。


同じ駅で降りたまばらな人影が、改札口へと続く階段へ吸い込まれてゆく中、君は初めて乗った電車が去ってゆくのをじっと見つめていた。


「もう少し乗っていたかったわ」


「楽しかった?初めての電車は」


「ええ、とても。あのまま乗っていたらどこへ行くの?」


「山を越えて隣の県の海まで行くよ」


改札を抜けて駅の外に出ると、夕陽はすっかり建物の影に隠れ、橙色の空の反対側からは濃紺の夜が広がっていた。


「金指くん、本物の海ってやっぱり広いの?」


「神代さんって本当に何も知らないんだね」


放課後という自由な時間だからだろうか。


それとも、月の視線を感じる夕暮れだからだろうか。


君の表情はいつもより少し柔らかく見えた。


「私、海に行ったことがないの。地図で見れば広いのは分かるんだけれど」


君はどこか寂しそうだった。


「神代さんは、海に行ってみたいと思う?」


何気なく聞いた僕の質問に、君は目を見開いて驚いた。


「行ってみたいか、ですって?」


なにかまずい質問でもしたのだろうか。


少し慌てる僕をよそに、君は難しそうに眉をしかめながら、顎に手を当てて悩み始めた。


十字路を過ぎて、また次の十字路を過ぎ、神代邸がぼんやりと姿を見せ始めた頃、そんなに長考しなくても、と僕が声をかけようとした途端、君は立ち止まって僕の制服の裾をつかんだ。


「そんなこと、考えたことがなかったわ」


君はなんとも言えない表情をしていた。


驚いているような、喜んでいるような、はたまたショックを受けているような。


薄藤色の西の空に宵の明星が輝き、三日月の鋭利な先端がほの明るい空を突き刺す頃、君は初めて知る感情に甚く動揺していた。