[第二話]春暁の空
翌朝、登校中の僕を眠りに誘おうとしているような、まとわりつくような暖かさの中、僕は重たい脚を懸命に前へ、前へと押し出して歩いていた。
桜の花はすっかり散り、新緑のみずみずしさが真っ青な空に眩しい。
麗かな春の風景に馴染む高校の校舎。
その前に、学校にはおよそ似つかわしくない、黒光のする高級外車が停車していた。
…神代家の車か。
その車は、生徒たちの登校の邪魔にならないようにと校門の横に停まっているのではなく、あえて門を塞ぐようにでん、と停められているものだから、生徒たちは皆、学舎へ入りづらそうにしていた。
僕も弧を描きながら校門をくぐる生徒たちの波に乗り、外車を横目に足早に過ぎ去ろうとした時だった。
「金指くん!」
車の扉を乱暴に開け、転がるように中から君が飛び出してきた。
高級外車から出てきたからなのか、それとも君が神代紫苑だからなのか、ぞろぞろと列を成して登校していた生徒たちは一瞬にして全員背景となり、君の声を聞いた全員が君と僕に意識を向けているような気がした。
「神代さん…おはよう」
僕の挨拶は聞こえていたのか、聞こえていなかったのか、君から挨拶が返ってくることはなかった。
代わりに君は、上品な光沢のある上等そうな鞄の中身を、ゴソゴソと引っ掻き回していた。
「あら?どこに入れたかしら。…おかしいわね、たしかこの辺りに…」
太陽の光を集める真っ黒な車の前で、僕らは完全に生徒たちの注目の的となっていた。
君は気にする素振りも見せなかったが、昔から人前に立って目立ったり、大勢の人に見られたりする経験がない僕にとっては、この状況は相当に居心地が悪く、なんとか誤魔化すためにちら、と運転席に目をやった。
50代くらいの、白髪の混じった薄墨色の髪の毛を几帳面にまとめた紳士が、こちらに注目するでもなく、生徒たちを目で追うでもなく、ただ一点を見つめ、令嬢からの「帰っていいわよ」の一言を待っていた。
「…あ!あったわ」
その声で我に帰り、正面に向き直ると、君は漆黒の包装紙に、白鼠色のリボンが掛けられた綺麗な箱を僕に差し出していた。
「…なに?」
普通の高校生の僕だって、いちいち調べなくともそれと分かる、馬の紋章。
いきなり目の前に出されたそれは、君から僕への贈り物だとなんとなく察することはできたが、落とした文房具を拾い渡すように差し出されたそれを、僕はすんなりと受け入れることはできなかった。
「昨日のお礼。大したものじゃないけれど、ハンカチよ」
「受け取れないよ、こんな上等なもの」
いいから早く、と強引に僕の右手に箱を握らせた君の手は、濡れた絹のようにどこまでもしっとりと滑らかで、僕がその感触に息を詰まらせた一瞬で、君は送迎車の運転手に帰ってよいと合図を出し、さっさと校舎へ向かって歩いて行ってしまった。
僕はしばらく立ち尽くして、手に握った高級ハンカチの包み紙を眺めていたが、断ろうにも君はもう校舎の中へ入ってしまったようだし、こんな上等なものを剥き出しで持ち歩くわけにはいかないと、一旦自分の鞄に入れ、ひとまず教室へ向かうことにした。
「おい、金指。おまえ今なにもらったんだよ」
「あ、浮所。おはよ」
同じクラスの親しい友人である浮所飛貴が、僕が鞄に黒い箱をしまうところを見ていたようだ。
しかも送り主が君であることも知っていたようで、いつも朝から元気な浮所は普段以上に高揚していた。
「なあ、なにもらったんだよって」
「ハンカチらしい」
「はあ?ハンカチ?なんで金指が神代さんからハンカチもらうんだよ」
野球部が朝練で汗を流しているグラウンド横を通り過ぎる間、僕は昨日の出来事を要点だけにしぼり、細かな会話や状況を省いてざっくりと浮所に伝えた。
「…なるほどな。そのハンカチはお礼ってことか」
「そうらしい」
「けどな、おまえちょっと気をつけた方がいいぞ」
浮所は意味ありげに、右腕で僕の右肩をぐい、と引き寄せ顔を近づけた。
「神代さんは財閥の一人娘だから、相当ややこしい人らしい」
ややこしい人、か…。
さっき浮所に話した内容では省略した、電車の乗り方を知らない君や、海を見たことがないと寂しげだった君を思い出し、浮所の言う根拠のない噂話も、確かにその通りかもしれないと思った僕は、ふ、と小さく笑ってしまった。
「おい金指、何笑ってんだよ」
そんな僕を、浮所は意外そうに見ていた。
「いや、何もない」
「あ、おい!金指、待てよ!」
すっきりと晴れ渡る天色の空に背を向け、僕は教室へと駆け出していた。